太祖 趙匡胤

太祖は「啓運立極英武睿文神德聖功至明大孝皇帝」と諡(おくりな)され、諱(いみな)は匡胤(きょういん)、姓は趙氏、涿郡(たくぐん)の出身です。

高祖の朓(ちょう)僖祖(きそ)と称され、唐に仕えて永清、文安、幽都の県令を歴任しました。
朓の子が珽(てい)で、順祖(じゅんそ)と称され、藩鎮の従事を経て、累進して御史中丞を兼ねました。
珽の子が敬(けい)で、翼祖(よくそ)と称され、営州、薊州、涿州の三州刺史を歴任しました。
敬の子が弘殷(こういん)で、宣祖(せんそ)と称されました。
後周の顕徳年間(954~960年)に、宣祖が貴顕となると、敬には左驍騎衛上将軍が贈られました。

宣祖は若い頃から勇敢で、騎射に長けていました。趙王の王鎔(おうよう)に仕え、王鎔の将として五百騎を率い、河上(かじょう)で唐の荘宗(そうそう)を援護して功績を立てました。
荘宗はその勇猛さを愛し、禁軍(きんぐん)に留め置きました。後漢の乾祐年間(948~950年)に、鳳翔(ほうしょう)で王景(おうけい)を討伐した際、蜀の援軍が来て陳倉(ちんそう)で戦いました。
戦いが始まると矢が左目に当たりましたが、ますます気勢を上げ、奮戦して敵を大いに破りました。その功績により護聖都指揮使に昇進しました。
後周の広順末年(954年)、鉄騎第一軍都指揮使に改められ、右廂都指揮に転じて岳州防禦使を兼任しました。
淮南(わいなん)への従征では、先鋒が退却し、呉の兵が迫ってきましたが、宣祖はこれを迎え撃ち、打ち破りました。
顕徳三年(956年)には、軍を督(とく)して揚州を平定し、世宗(せそう)と寿春(じゅしゅん)で合流しました。
寿春の餅売りの店で餅が薄く小さかったため、世宗は怒り、十数人を捕らえて誅殺しようとしました。宣祖が強く諌めたため、彼らは解放されました。
累進して検校司徒天水県男となり、太祖と分かれて禁軍を統率し、当時大変栄えました。
宣祖が亡くなると、武清軍節度使太尉が追贈されました。

太祖は宣祖の次男で、母は杜氏です。
後唐の天成二年(927年)、洛陽の夾馬営(きょうばえい)で生まれました。生まれた時、赤い光が部屋を包み込み、不思議な香りが一晩中消えませんでした。身体には金色の光沢があり、三日間変わりませんでした。
成長すると、容貌は雄々しく堂々とし、器量も広々としていました。彼を見た者は、並外れた人物だと知りました。
騎射を学ぶと、常に人より抜きん出ていました。
ある時、荒馬を試乗する際、くつわや手綱をつけずに乗りました。馬が逸れて城壁の斜道を駆け上がった際、太祖は額を門の鴨居にぶつけて地面に落ちました。人々は頭が砕け散っただろうと思いましたが、太祖はゆっくりと起き上がり、再び馬を追いかけて乗り上げ、全く傷がありませんでした。
また、かつて韓令坤(かんれいくん)と土室の中で囲碁を打っていた時、戸外で雀が喧嘩していたので、二人は競い合って雀を捕まえようと立ち上がると、その途端に土室が壊れました。

後漢の初め、放浪して何も得られませんでしたが、襄陽(じょうよう)の僧寺に滞在した際、術数に長けた老僧が太祖を見て言いました。「私はあなたに厚く贈り物をするので、北に行けば良い出会いがあるでしょう。」ちょうどその時、周祖が枢密使として李守真を征伐するのに際し、太祖は志願してその幕下に加わりました。
広順初年(951年)、東西班行首に補任され、滑州副指揮に任命されました。
世宗(柴栄)が京(都)を統括していた時、開封府馬直軍使に転じました。

世宗が即位すると、再び禁軍を統率するようになりました。
北漢が侵攻してきたため、世宗は軍を率いてこれを迎え撃ち、高平(こうへい)で戦いました。
戦闘が始まるやいなや、指揮官の樊愛能(はんあいよう)らが先に逃亡し、軍が危うくなると、太祖は同僚たちを率いて馬を駆って敵の先鋒に突撃し、漢の兵は大いに潰走しました。
その勢いに乗じて河東城を攻め、その門を焼きました。左腕に流れ矢が当たりましたが、世宗は太祖を制止しました。
都に戻ると、殿前都虞候に任命され、厳州刺史を兼任しました。

三年(956年)の春、淮南への従征では、最初に渦口(かこう)で大軍を破り、兵馬都監の何延錫(かえんしゃく)らを斬りました。
南唐の節度使である皇甫暉(こうほき)と姚鳳(ようほう)は合わせて十五万の軍勢と称し、清流関(せいりゅうかん)を塞いでいましたが、太祖はこれを撃退しました。
城下まで追撃すると、皇甫暉が「人はそれぞれ主君のために戦うものです。願わくは列を組んで勝敗を決めましょう」と言いました。太祖は笑ってこれを許しました。
皇甫暉が陣を整えて出てくると、太祖は馬の首元を抱え込んでまっすぐ突入し、自ら皇甫暉の頭部を斬り、姚鳳も捕らえました。
宣祖が兵を率いて夜半に城下に着き、開門を叫びましたが、太祖は「父子は確かに親しいですが、門を開閉するのは王の仕事です」と言いました。翌朝になり、ようやく入城が許されました。
韓令坤(かんれいくん)が揚州を平定した際、南唐が援軍を送ってきたため、韓令坤は退却を議論しましたが、世宗は太祖に兵二千を率いて六合(りくごう)へ向かうよう命じました。
太祖は「揚州の兵で六合を越える者があれば、その足を斬る」と命令を下し、韓令坤は初めて堅守しました。
太祖は間もなく六合の東で斉王景達(せいおうけいたつ)を破り、一万余の首を斬りました。
都に戻ると、殿前都指揮使に任命され、すぐに定国軍節度使にも任命されました。

四年(957年)の春、寿春への従征では、連珠砦(れんじゅさい)を攻略し、遂に寿州(じゅしゅう)を陥落させました。
都に戻ると、義成軍節度検校太保に任命され、依然として殿前都指揮使を兼ねました。
冬には濠州(ごうしゅう)、泗州(ししゅう)への従征に前鋒として加わりました。当時、南唐の軍は十八里灘に砦を築いており、世宗はラクダを使って軍を渡そうと議論していましたが、太祖は一人で馬を躍らせて川を渡り、麾下(きか)の騎兵もそれに続き、遂にその砦を破りました。
その戦艦を利用して勢いに乗じて泗州を攻め、陥落させました。
南唐軍が清口(せいこう)に駐屯していた際、太祖は世宗に従って淮河の東を下り、夜間に山陽(さんよう)まで追撃し、唐の節度使である陳承昭(ちんしょうしょう)を捕虜にして献上し、遂に楚州(そしゅう)を攻略しました。
さらに迎鑾江口(げいらんこうこう)で唐の兵を破り、まっすぐ南岸に達してその陣営を焼き払い、瓜歩(かほ)でもこれを破り、淮南を平定しました。
唐の皇帝は太祖の威名を恐れ、世宗に離間の計を用いました。使者を送って太祖に書簡を贈り、白銀三千両を贈りましたが、太祖は全て内府(国庫)に納めたため、離間の計は失敗に終わりました。
五年(958年)、忠武軍節度使に改められました。

六年(959年)、世宗が北征すると、太祖は水陸都部署となりました。
莫州(ぼしゅう)に到着すると、先に瓦橋関(がばしけん)に達し、その守将である姚内斌(ようないひん)を降伏させ、数千騎を退却させ、関南を平定しました。
世宗が道中、各地の文書を閲覧していると、韋囊(いろう)を見つけました。その中に三尺余りの木片があり、「点検が天子となる」と書かれていました。世宗はこれを不思議に思いました。
当時、張永徳(ちょうえいとく)が点検でしたが、世宗は病気がちであったため、都に戻ると太祖を検校太傅殿前都点検に任命し、張永徳に代わらせました。
恭帝(こうてい)が即位すると、太祖は帰徳軍節度検校太尉に改められました。

七年(960年)の春、北漢が契丹(きったん)と結んで侵攻してきたため、太祖に出兵してこれを防ぐよう命じられました。
軍が陳橋駅(ちんきょうえき)に滞在した際、軍中の星見の苗訓(びょうくん)が門吏の楚昭輔(そしょうほ)を引いて日中の太陽の下に、もう一つの黒い光を放つ太陽が長時間漂っているのを見せました。
夜五鼓(午前3時頃)、兵士たちが駅の門に集まり、点検を天子に推戴すると宣言しました。止める者もいましたが、衆は聞き入れませんでした。夜が明ける頃には、太祖の寝所に迫り、太宗(後の趙光義)が入ってその旨を告げると、太祖は起きました。
諸校(将校たち)は刀を抜き、庭に並んで言いました。「我々の軍には主がおりません。願わくは太尉を天子に推戴したいと存じます。」太祖が返答する間もなく、黄色の衣を太祖の身にまとわせる者がおり、一同はひざまずいて万歳を叫び、太祖を脇から抱え上げて馬に乗せました。
太祖は手綱を握り、将軍たちに言いました。「私に号令があるが、お前たちは従えるか?」一同は馬から降りて「仰せのままに」と言いました。太祖は言いました。「太后、主上(恭帝)には、私は皆北面して仕えてきた。お前たちは決して驚かせたり犯したりしてはならない。大臣たちは皆、私の同僚である。侵略してはならない。朝廷の府庫、士庶の家は、侵略してはならない。
命令に従えば重い褒賞を与えるが、もし逆らえば妻子もろとも処刑する。」諸将は皆ひざまずいて再拝し、隊列を整えて都に入りました。
副都指揮使の韓通(かんつう)はこれを阻止しようと謀りましたが、王彦昇(おうげんしょう)がすぐに韓通をその邸宅で殺しました。

太祖は明徳門(めいとくもん)に進んで登り、甲士(兵士)たちに陣営に戻るよう命じ、公署に退いて滞在しました。
しばらくすると、諸将が宰相の范質(はんしつ)らを擁してやって来ました。太祖は彼らを見ると、嗚咽し涙を流しながら言いました。「天地に背き、今このようになってしまいました!」范質らがまだ返答しないうちに、列校の羅彦瓌(らげんかい)が剣に手を当て、厳しい声で范質らに言いました。「我らには主がいない。今日、必ず天子を得る必要がある。」范質らは顔を見合わせ、どうすることもできないと悟り、階段を降りて並んで拝しました。
文武百官が招集され、夕方までには班が定まりました。翰林承旨(かんりんしょうじ)の陶穀(とうこく)が周恭帝の禅位(ぜんい)の制書を袖から取り出し、宣徽使(せんきし)が太祖を庭に導き、北面して拝受すると、太祖を崇元殿(すうげんでん)に抱え上げ、袞冕(こんべん)を着用して皇帝の位に即きました。恭帝と符皇后は西宮に移され、恭帝の帝号は鄭王に改められ、符皇后は周太后と尊称されました。

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